研究ブログ【コラム】#221
こらむ・マグロ所長
四大公害病とは?高度成長期の日本との関連についても
日本では1950年代後半から1970年代前半、経済の高度成長を遂げました。一方で、大気汚染や水質汚濁といった公害が深刻化。水俣病や四日市ぜんそくなどの四大公害病が大きな社会問題になりました。
本記事では四大公害病の概要と、高度成長期の日本との関連について解説します。
四大公害病とは、高度成長期に被害の大きいものを指します。具体的には「水俣病」「第二(新潟)水俣病」「四日市ぜんそく」「イタイイタイ病」です。
水俣病は、1956年に熊本県水俣湾周辺で発生しました。工場排水の中に含まれたメチル水銀に汚染された魚や貝を食べることによるメチル水銀中毒です。体内に入ったメチル水銀は主に脳などの神経系を侵し、手足のしびれや言葉がはっきりしないなどのさまざまな症状を引き起こします。水俣病の根本的な治療法は見出されておらず、それぞれの症状に対する対症療法や機能訓練などをおこなっていくしかありません。
第二(新潟)水俣病は、新潟県で1965年に阿賀野川流域で発生が確認されました。熊本県の水俣病と同様、水銀汚染の食物連鎖で起きた公害病です。昭和電工鹿瀬工場から出た廃水が原因とされています。症状も熊本県の水俣病と同じです。
四日市ぜんそくは、三重県四日市市の周辺地域で発生した大気汚染を原因とする公害病です。石油化学コンビナートの稼働にともなう大気汚染物質(硫化酸化物)の排出により周辺住民にぜんそくの症状が出ました。工場から排出される煙には亜硫酸ガスが多く含まれており、亜硫酸ガスは目やのどを刺激する有害物質であることがわかっています。
イタイイタイ病は、富山県神通川流域で発生した公害病です。当時、神通川上流で亜鉛や鉛を産出していました。その生産過程で出てくるカドミウムが川に流入し、その水を慢性的に摂取した住民の腎臓や骨に障害が起きたのです。
1950年代後半から1970年代前半にかけての「高度成長期」に、日本は重化学工業化が進みました。このころ海外から導入した技術をもとに技術革新がおこなわれ、新しい産業をおこすための設備がつぎつぎと新設されていった結果、日本は急速に発展したのです。このときに工場から排出された未処理の有害物質が大気や水を汚染し、住民に健康被害をおよぼしました。
公害は経済の発展にともなって生じたひずみともいえます。国や企業、住民のほとんどが豊かさを求めた結果でもあるのです。四大公害病の問題は現在進行中であり、今なお公害病と闘い続けている人が多く存在します。
高度成長期のまっただ中、飛躍的に業績を伸ばしていた日本の企業は住民の健康被害に真摯に向き合うことはなく、工場の稼働を止めることはありませんでした。政治経済社会の構造が「企業利益」を優先させるものだったからです。
その結果、公害で苦しむ多くの患者を生み出すことになりました。
大気汚染や水質汚染による健康被害が、その地域の工場から排出される有害物質によるものだと特定するには、調査をしたり検証をしたりと一定の期間が必要です。当時の国や企業は有害物質の成分分析などを積極的におこなわなかったため、公害と病気の因果関係の特定に時間がかかりました。その結果、健康被害を受けた人たちの救済が遅れてしまったのです。
当時、公害病の原因が工場から排出される有害物質だとは誰も知らないなか、体調不良に苦しむ人は、その症状を表に出すことができませんでした。「伝染病」「こわい病気」などと言われ、家を消毒されたり伝染病棟に入院させられたりして不当な差別を受けたからです。
原因がわかってからも、仕事を辞めさせられたり結婚するときに差別を受けたりが続いたといいます。そのような差別・偏見を恐れて病気を隠し続けて亡くなった人もいるそうです。
差別や偏見が続いた理由の一つとして、行政や報道機関が正しい報道をおこなわなかったため、住民が誤解したままになっていたことが挙げられます。
害病の被害が拡大し、苦しむ患者を救おうと立ち上がったのは弁護士や学者、医師などの支援者でした。企業の責任と不法行為を明らかにして、賠償を求める裁判を起こしたのです。
のちに、患者が裁判で訴えなくても補償が受けられる法律が制定されましたが、国が同法による審査基準を厳しくしたため、却下される患者が増えてしまいました。そのため現在でも、公害病で苦しむ被害者と国との交渉は続いています。
水俣病をきっかけに1971年に「環境庁」ができました。公害病は人的被害だけではなく、環境破壊にもつながる問題です。被害の大きかった「四大公害病」をきっかけに環境問題への意識が高まるなか、国は「環境基本法」を制定しました。環境への負荷を最小限にしつつ、経済を持続的に発展させる「持続可能な社会」の実現に向けてさまざまな活動に取り組んでいます。
国と企業、住民それぞれが持続可能な社会を意識しなければなりません。エネルギーを節約したり、限りある資源を繰り返し利用したり、いつまでも自然の恵みを受けられるように自然を守ったりする努力が必要不可欠です。
多くの被害者が今もなお苦しんでいるという現状があります。その経験を教訓にして、持続可能な社会を作っていきましょう。